アサーションに関して(7)自己肯定感と多様性

色々な人がいて、色々な状況があって、好きな人がいて、嫌いな人がいて、好きな状況や嫌いな状況があって。

好きな食べ物、嫌いな食べ物なんてのもあって、ハンバーグは大好きだけど、らっきょうの漬物は大嫌い。ハンバーグは良い食べ物で、らっきょうの漬物は悪い食べ物だ!(?)

そんなの変だけど、益虫と害虫とか呼ばれる虫たちは、生まれてきてただ生きているだけなのに、良いとか悪いとか言われてしまうし、ルチンだ、リコピンだ、ポリフェノールだとかは、「良い」の代表で、逆に悪者呼ばわりされる物質達もたくさんあったりする。

なんか理不尽ですよね。それでも、そこには良いか悪いかの一本の線を引く理由があって、それは「人間が生きていくために役立つか役立たないか」ってことで、分かりやすく「良し悪し」とか「益害」とか言うわけです。

好きとか嫌いというのも、自分の喜びとか苦しみとかを上げたり下げたりする元になるわけで、自分が生きていくために必要な一本の線を「好きと嫌い」の間に引くってことで、それも大切なことなんだと思います。

この一本の線。動かすことが可能で、「良い」や「好き」を広げていく側に動かしていくと、受け入れられる多様性を広げていくって話になっていきそうです。顔つきや態度が嫌いな相撲の力士がいたとして、あるドキュメンタリーでその人の想像を絶するような、たいへんな生い立ちが紹介されたりすると、急にファンになって応援するようになったり。一本の線がものすごく移動していきます。

僕らは僕らの知っている知識を使ってしか物事を判断できないし、僕らの知識はそう多くはないかもしれないわけで(知識のたくさんある人、ごめんなさい)、新たな知識を得た時、ものごとは全く違って見えたりするわけで。

(極端に何かを傷つけるものたちのことは、一旦脇に置くとして)すべてのことに関する知識があるわけではないのだと謙虚になりながら、今ここにあるたくさんの存在を受け入れられるようなところに線を引く必要があるのかもしれないと僕は思うのです。多様性に振れていく入口はそんな謙虚さだと思うのです。

そしてそして、色々な状況の中で、色々な人間関係の中で、変化していく自分自身のこと。好きな自分と嫌いな自分。ある状況では、他の人との比較で一本の線を引いて劣っている自分をダメだと思ってみたり、小さな子どもたちの前では、自由ではつらつとした素敵な自分がいることに気づいてみたりするのかもしれません。力士の例のように、嫌いな自分がもっている壮大なドキュメンタリーを思い起こしてみたら、すっかり自分のファンになってしまうことがあるかもしれないとか、いいとか悪いとか関係なく、「生まれてきたから生きている虫達」をそのまま存在として受け入れるような感覚で自分を眺めてみて、「いいとか悪いとかどうでもよくて、なんか頑張って生きてるじゃん、こいつ」と受け入れてみる可能性もあるかもしれないとか。

上だと思う人、下だと思う人、と勝手に自分で作っている上下関係の中で変化する気持ちも、日々、成長して変化していく自分も、そんな色々なことを自分の中の多様性として受けとめられることが、世界にある多様性を受けとめていくことと根っこの部分は同じなのではないかな、と思います。

アサーティブであることと、自己肯定感と多様性について、また一緒に考えていきましょう。

ちなみに僕はアサーティブなので、ハンバーグもらっきょうの漬物も大好きです。(笑うところです)(誤解がないように:ほんとは、アサーティブでいることを目指している一人です)

第7回はここまで。最後まで読んでいただきありがとうございました。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまアサラボ)高橋祐紀

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