アサーティブに!(41)面倒くさいこと?

 100均と言われる店で、目的のものを買った。誰とも何も話さなかった。

 シャツを買いに洋品店に行った。誰とも何も話すことなく、会計を済ませた。

 特急の指定券もネットで予約し、駅の券売機で購入・・・。

 今まで、買い物をするには、必ず誰かと話す必要があって、その態度が時にむかつくこともあったり、なかなかこちらの言っていることが伝わらなかったり、逆に店員の説明がわからなかったすることもあったり、要らない物を勧められたりと、わずらわしく面倒くさいこともしばしばありました。もちろん、今でも面倒くささは残っています。

 この面倒くささから解放されるための様々な発明によって、買い物も変化しつつありますが、この方向に時代が流れていってしまうことに、戸惑いも感じます。何かを手に入れことによって、何かを失ってしまうこともあります。コミュニケーションの煩わしさから解放されることによって、コミュニケーションの「方法」「技術」「経験」を失ってしまって、十人十色の人の多様性を受け入れる「寛容さ」や「思いやり」の気持ちや「正義」の柔軟性も失ってしまうような気がします。

 目的を達成するには、いくつもの方法を考えることができて、例えば、人々が遠くまで長い時間歩かなくても済むようにしたいという目的を達成するには、より早くより利用しやすい交通手段を開発することもあれば、通信手段を発展させて、そもそも遠くまで移動しなくて済むようにしていくことも考えられるわけです。

 コミュニケーションの煩わしさから人々を解放するためには、コミュニケーションをしなくても良い環境を作ることと、もうひとつ、人々のコミュニケーションの技術を上げていくことも考えられるわけです。

 誰とも話をしないで生活できることで、果たして心の健康は保たれるのか?社会の健康は保たれるのか?面倒くさいと思えるコミュニケーションを、考え方ややり方によって、そのほとんどを、楽しさや喜びに変えていくことはできないのか、ということを考えていくことも重要ではないかと思うのです。

 人が分断され孤立し、孤独になっていくと、生きていくこと自体の意味が徐々に薄くなっていってしまう。そんなふうに感じるのです。

 面倒くさいと思われる人と人との関係を改善していく。そうやって社会を変えていきたいな、なんて妄想を膨らませています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)

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