アサーション(19)親は子どもに何を望む?
もうずっと会っていない友人がいて、勝手に親友だなんて思っていて、もちろん向こうがどう思っているかなんてわかるはずもなくて、連絡もとっていないから本当のところ、生きているかどうかも定かではない。
その友人が、今どう暮らしているかなんて思う時、僕はいったい何を望むのだろう、なんて考えてみました。
「一流企業に勤めていて、お金には不自由しない生活をしていて、そんなふうに経済的にも身分が保障されていて、きっと結婚や家族も望むようになっているんだろうな、そうあってほしいな」って、心から思うかというと、なんか違う気がするのです。
仕事や経済的余裕や、結婚や家族や、そういうことって、彼が自分で選んだり選ばなかったりした内容だから、僕が勝手に、それが「幸せというもの」なんて彼に押しつけているみたいなのは、何かおかしいぞという気がします。
どんな状況でもいい。ただ、彼が日々の中で時々でいいから幸せを感じるように暮らしていたらいいな。と思うくらいが僕の立場的限界だと思うのです。もし今度会うことがあったら、その時、心から嬉しそうに「おう、元気にやってたか?」「生きてたか?」みたいにお互いに笑顔で言えたらいいな。それが僕の望みで、「彼は彼なりに生きてきた」「僕は僕なりに生きている」というお互いの「生」にちょこっと触れあう。それでいいような気がします。
では、友人ではなく子どもに対して、親はいったい何を望むのか?勝手に想像して書きますが、「幸せになってくれること」、「そのために生きていく力を手に入れてくれること」。合ってますか?
そしてはっきりしているのは、何が子どもの幸せなのか親にはわからないということ。その子どもが生きていく力を手に入れる方法も、時代の中で変化し続けていて、親がわかるのは古い方法だけかもしれないってこと。
親にできることって、子どもがいつの日か「学びたい」と思った時にスムーズに学べるように、基礎的な学力をつけるチャンスを与えてあげることだったり、いつか行動し始める子どもが活動するのに耐えられる健康や基礎の体力をできる限り身につけさせてあげること、くらいなんだと思います。(そういうことが叶わない家庭環境の方もたくさんいると思います。ごめんなさい)
そのためには、さらに基礎となる自己肯定感とか自己効力感とかのことを考えることが必要となっていきます。(後日、詳しく書ければと思います。)
そして、基本。子どもの話を聴く準備はできているか?親の聴きたいことを話させているだけでなく、「子ども自身が話したいことを話す」ことができているか?「話しても良い。受けとめてくれるから」と子どもが自然に思えているか?
そこにもアサーティブな関係が大切になってくるように思うのです。
もしも何十年ぶりに、友人に会ったとしたら僕は何の話をしたいと思うのだろう。そしてたくさん話した後、どんな気持ちで「じゃあ、また」と僕は言うのだろうか?去っていく友人の背中を見ながら、その向こうに広がる広い空を見ながら、僕は人生の短さと長さについて考え始めるのだろうか。
子どもと友人のことの対比から何か見つけられるものがあるといいなと思っています。では、また。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまアサラボ)高橋祐紀