時代雑感
ちょっとアサーションやコミュニケーションから離れて。
どうしたら、みんなが幸せになれるだろう?なんて言葉が頭に浮かぶことがあります。そしてすぐに、なんて偉そうな上から目線でものを見ているんだろう、なんて言葉が出てきます。
幸せという言葉があまりにも曖昧すぎて、その曖昧さの中に僕が勝手に思い込んでいる「幸せの雰囲気」みたいなものを、みんなに強制的に押しつけて、「ほら、幸せでしょ」って言いたいだけの自分がいるような気がします。
ある人達が思う幸せは、楽しさ、嬉しさ、喜び、笑顔、夢、希望、富、そんな言葉に常に包まれていることを意味するかもしれません。
ある人達が思うのは、いつか叶う夢に向かって厳しい努力をし続ける日々も幸せの一部なのかもしれません。
ある人達は、何かへ反発する気持ちや世の中への不満を生きる力に変えて、時代の中の矛盾や権力と戦い続けることに幸せに似た感覚を持っているかもしれません。
大きな夢を持ちなさい。と若者達を希望もって生きる幸せへ導こうとしている人の言葉を聞きながら、「夢を持てない自分はダメなやつだ」と落ち込んでいく若者もいたりします。
今朝の青空の、薄い綿のような雲を見ながら、時代はどこへもたどり着けないんだろうな、とふと思います。そして思うこと。
誰かのために、なんて思ってもそれは所詮、偽善にすぎないのかもしれない。ただ、自分の生き甲斐みたいなものにつなげたいだけなのかもしれない。自己満足なのかもしれない。それでもその偽善みたいなものでも、だれかが勘違いして喜んでくれるなら、やればいいんじゃないかな。あるとき、パラダイムシフト(世の中の価値観の大きな転換)が起きて、良いことと悪いことが逆転しまって、悪者扱いされることになったとしても、その時代の中で、自分の把握できる地域の中で、自分と関わることのできる人達の幸せを願っていた自分がいたって思えたとしたら、それでいいじゃないかな。そして、それが人のできることの限界なんじゃないかな・・・なんて。
一歩進めば一歩先の景色が見えます。自分を好きになったり、自分を嫌いになったり、それを繰り返しながら、自分の一歩は正しい方向なのかな、なんてくよくよと考えながら、進んでいきたいと思うのです。今日の青空の下を歩いてみたいと思うのです。