アサーション(25)アサーションの浸透の必要

 悲しみも苦しみも存在する世界。怒りも争いもある世界。そんなマイナスのことから解放されるために人々は様々なものを発明し、様々な仕組みを作っているけれど、マイナスなことが完全になくなった世界が本当によい世界なのかといえば、疑問が残るような気がします。

 上り坂は辛く、下り坂は歩きづらい。だから世界を平らにしよう。そうやってできる平らな世界。夏は暑すぎて冬は寒すぎるから、快適な温度に保たれた世界を作ろう。

 そうやって僕らは完全な快適さを手に入れながら、なにか大切なものを失っていくような気がします。

 人と人との話し合いは難しいから、必ずプロの話し合い会社に入ってもらう。答えのわからない難しい問題は、AIのビッグデータ収集能力と計算能力で最適解を出してもらうから、もう人が不毛な会議などする必要は無い。なんてことに・・・。

 僕らはとんでもなく大きな何かを失っていくような気がします。

 古き良き時代への郷愁だなんて言われてしまうのでしょうか?そうなのかもしれないのですが、ただ、何もかもが快適になった時、人は生きている意味を見失ってしまうのではないかという気がするのです。

 みんなが元々いびつな形をしていて、そのいびつさの不足した部分は助け合うことでしか埋めることができず、助け合いを求めながらも、方法論は人それぞれでそこには議論が必要となり、議論をすれば、人と人の対立が生まれ、その対立は残念ながら完全に無くすことはできない。対立や争いを無くすことはできないけれど、対立したり争いをしたりする時に、平和的な方法をとることは可能かもしれない。

 でこぼこしたいびつな世界の中で、そのでこぼこしたいびつな幸せや不幸を手に入れたり手放したり、与えたり、与えられたりするために、たくさんの争いをすることになってしまうのかもしれません。

けれど、その争いの形を少しでも暴力的でなくするために、映画や絵画や写真やほかの芸術や文学の力を借りたり、言葉の伝え方を学んだりするのだと思うのです。

 人と人が一緒に過ごす中で、意見の相違がどうしても起きてしまうのだとしたら、その意見の相違にどう対処していくのか、その意見の相違が争いになってしまうとしたら、その争いの形をどんな形にしていくのか、ガンジーやキング牧師、そんな偉人達の時代から学べることが沢山あるように思います。暴力に訴えることなく、言葉で伝えていくこと。すべての人の人権が守られることを求めて、思いを言葉にしていくこと。

 話がまとまりを失いながら、大きくなってしまいましたが、現代もまた、精神的に追い込まれていく人々がたくさんいる時代です。その苦しみから多くの人が解放されていくためには、相手も自分も大切にしながら自分の思いを伝えていく「アサーション」が静かに社会全体に浸透していくことが重要なのではと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)高橋祐紀

 

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