時代雑感(3)

電車の中で本を読んでいることと、電車の中でスマホを見ていること。

どれくらいの違いがあるのだろう。本は昔から、スマホはここ十数年。ただそれだけ。その違いだけ?

電車の中でヘッドホンなどして音楽を聞いている人、同じく英語教材を聞いている人、オーディオブックを聞いている人、そしてゲーム機で夢中でゲームをしている人などなど・・・・。

表面上の僕は、理性的で多様性を受け入れる人であって、そういう人でいたいと思っている人なわけで、人に迷惑をかけなければ、それぞれの人の自由で、それぞれが過ごしたいようにすごせばいいよね、と口にする。

でも、本来の僕は(つまり、心の中では)、この時代の急な変化についていけずにいて、たくさんの違和感を覚えて、さらにそのたくさんの違和感を論理的に説得力ある言葉に変えて、自分を正当化したいと思っているみたいで、まるで古き良き時代こそ正義だといわんばかりに、目の前の現実に突っ込みを入れ始めている。そんな時の僕はまるで、センチメンタルな詩人になったみたいな気分で言葉を選んでいるようなのです。例えば・・・

この電車というひとつの箱の中で人々はひとりひとり、箱の外の全く違った世界とつながっていて、この箱の中にいるという現実のことは完全に忘れきっている。ゲームの世界に入っている人は、隣に誰が座っているか、目の前にどんな人が立ったのかも気づくことなく、広い草原や大きな建物の中を敵に出くわさないように走り回り、銃を撃ち続け、上から降ってくる物体を色事に並べたりしている。前の駅で入ってきたジャージ姿の高校生の一団が今日の試合で勝ったらしく、ハイテンションで声を上げていることも、窓の外に突然開けた景色の中にまんまるな月が浮かんでいたことも、全くどうでもいいことでしかなく・・・

なんてね。

最近、この違和感から少しだけ抜け出すことの出来る方法を見つけたような気がしています。ちょっと偉そうな感じかもしれないけど、駅の改札から大量に湧き出てくるように現れる人の波に押し戻されそうになりながら、ひとりひとりのことを思おうとしてみるのです。(「全ての」じゃなくて)それぞれの人が、朝爽やかに目覚めたり、目覚めなかったり、ご飯を食べたり食べなかったり、ネクタイを選ぶのに迷ったり迷わなかったり、髪の毛がはねているのを直せたり直せなかったり、

玄関の鍵が最近渋くなったなって思ったり、傘を持ってくれば良かったなんて戻る時間があるか時計を確認したり、足の爪を切らなかったから、ちょっと痛い、なんて思ったり・・・

颯爽と歩く人も、うつむき加減に歩く人も、それぞれの人がそんな朝のできごとをこなして、今改札から吐き出されるように町に繰り出していく。

それぞれの人生があって、それぞれの理由があって、それぞれ自分を調整していくための方法をみつけようとしていて、許される範囲の自分のコントロール法をこの時代の技術や知識を利用しながら人々は生きているのです。そして、充実した一日や、またはひどい一日、戦いのような一日を終え、また夕暮れの駅の改札に飲み込まれていくのです。

さっきまで電車の窓から時折まぶしく差し込んでいた日も景色の向こうに隠れて、僕も家に帰る時間を、ポケットから取り出したスマホに打ち込みはじめるのです。センチメンタルな詩人であることなどすっかり忘れて、時代の知識と技術の中に埋もれていくのです。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまアサラボ)高橋祐紀

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です