時代雑感2 不満、怒り、人の関わりなど

 色々なことが起きて、不満が積もっていって、「まったく、もう!!!」みたいな怒る言葉になって口に出て。そういう人は沢山いるだろうし、僕もそう。ただ怒りながら何かすると、結構失敗することが多くて、コップを倒してしまったり、間違ったところを切ってしまったりするので、大事なことをするときは、一旦大きく息を吐いて落ち着いてから取りかかることにしていたりします。

 良いか悪いかは別として、時々思うのは、不満を持って怒って文句を言っている自分が、その怒りの力みたいなものを「自分の生きる力にしている」ことがあるかも、なんてことです。色々と悲しいことが重なっていた頃、体に力を入れることができないような感じで気力が下がっていて、その時、目の前にあった不満に対しての怒りが、自分が生きていくために残されていた数少ない力の元だったようにも思うのです。(だからと言って、不満のタネのできごとに感謝なんかしませんよ!)

「なにかする」というのは、多くの場合、人と関わるということで、人と関わって何かすれば、そこには越えなければならない壁が現れ、そこで怒ったり文句を言ったりするわけだけれど、その壁を越えたり壊したりに集中する必要が出てくると、気がつくと他のことを忘れている自分がそこにいたりする。

 仕事でトイレの掃除をさせられる時、「嫌だな」と思ったり、「なんで自分がしなくちゃならないの」と怒ったりしていたはずなのに、「この汚れはどうやったら落ちるだろう」って次々に方法を試してみてる自分がそこにいたりする。他のことを忘れて、集中している自分がいたりする。そして汚れを落として、達成感を感じている自分がそこにいる。(賛否両論でいいのですが)

「生きている意味って何?」そんなことを真剣に考えることなく人生を送れれば一番いいのかもしれませんが、人と関わり、嫌な思いもしながら、怒ったり苦しんだり笑ったり泣いたりしていることで、振れ幅の大きなサイン曲線(画像検索してね)みたいな上がり下がりの中に、生きている意味は見つけられないとしても、『生きている自分』を見つけて、『生きていこうとしている自分』を見つけるのだと思うのです。

 ネット、SNSが、人と人をある意味ではつないでいくけれど、自分のいたい世界以外からはどんどん遠ざけてくれて、それが生きやすさなのかというと、そこにある生きやすさは短期的なもののようにも感じるのです。生きている自分を認識するには振れ幅が小さすぎて弱すぎるように感じるのです。(そうでない場合も沢山あると思いますが)

 便利な時代、サービスの行き届いた時代、楽ができる時代。その中で失ってしまう不便さや不器用さ、余計なお世話や助け合いや、そんな敬遠されがちな泥臭さみたいなものが持っていた意味は何なのか?

 ひとつは人に対しての愛情。ひとつは人より優位に立ちたい(マウントをとりたい)気持ち。それから、本気で心配し、本気で人に貢献している気持ちと、やってあげている感に酔っている気持ちと、見返りを求める気持ちが混じったもの。なのかな・・・。

 時代が急激に変化する中で、僕たちは「持っているもの」と「新しく手に入れたもの」と「失ってしまったもの(かつて持っていたもの)」「手に入らないもの」「完全に捨てるもの」などを直視し検証しながら、進んでいく必要があるのだろうと思います。

と、書きながら「ちっとも良い時代にならない。まったく、もう!!」なんて思っていると保存しないで消してしまったりするので、大きく息を吐いて落ち着くことにします。

ということで、これを朝読んだ人には、良い一日を、夜読んだ人には、明日が良い日になりますように、とお祈りします。では。

 NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまアサラボ)高橋祐紀

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