アサーティブに!(44)「助けて」と言えるのか?
「助けて」とひとに助けを求めることが大切、なんて言葉を見かけます。
でも、自分の中のプライド(?)やら、そんな自分の情けなさやら、恥ずかしさやら、言葉に出してしまった時の相手のあまりよくない反応を想像してしまったりとか、なかなか助けてなんて言えない人も多いかもしません。
では、仮に言えたとしたら、本当に助けてもらえるのか?
本当に話を聞いてくれて、本当にそのままを受けとめてくれて、どうしてほしいのかをじっくりと聞いてくれて、そして、本人の思いを越えすぎることなく行動してくれる人が、本当にいるのか?というところが問題です。
いじめなどに関して、小中学生が親や先生に相談しない理由として、「大人は暴走するから」というのがあります。本気で聞いてくれたとしても、正義感や経験から、子ども本人が望まないような行動をあまりにも積極的に大人がとったとしたら、それは、解決どころか、さらなるいじめに発展することもあるかもしれないのです。本人が何を望んでいるのかを理解して気持ちに寄り添ってくれる人がいるのかどうか、が重要なところです。
助けて、と言っても、言葉を発した本人が感じている深刻さを受けとめてもらえないことも多々あるでしょう。そんなこと気にしない方がいいよ。なんて軽くアドバイスされてしまったり。
世の中の様々な状況は、助けてと素直に言えるほど、簡単ではないように思います。助けてと言っても、本気で聞いてくれるひとは、そうそうは、いない。助けて、と言って暴走されれば、言わなければよかった、ということになる。助けてくる人に出会えたと思っていると、私が助けたのよ、なんて自慢げに人に話したり、恩を売ってくるような人だったり。
世の中が本当の意味で発展していくというのは、こんなコミュニケーションの元にある「心の在り方」が成熟していくことなのだと思います。心の在り方の成熟なしには、どんな科学や技術の発展も見せかけの発展に過ぎず、幸せに関係していく発展につながることはないような気がします。
まずは、相手の心に寄り添って聴くという態度を、自分自身の心を見つめながら育てていくこと、そして、言葉を交わしながら誤解を極力減らした関係を作っていくことが、ひとつレベルの高い世界を作っていくことの元にあるように思うのです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)