アサーティブに!(36)塞翁が馬
禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬(検索してみてね)。
なんて言います。良いことと悪いことは交互にやってきたり、良いことが原因になって悪いことが起きたり、悪いことが原因になって良いことが起きたり。人生というか、世の中の流れはそういうものなのだということを知っておいて、目の前に起きる出来事に一喜一憂しても仕方ないということ。
母親が入院していることが多かった僕は祖父母(特に祖父)といる時間が長くて、小学校に上がる前から、こんな話をよく聞かされました。ついでに言うと、お風呂も祖父と入ることが多かったので、武田節(甲斐の山々~から始まる歌)を一緒に歌い、2番と3番の間の詩吟も一緒に吟じていました。さらについでに言うと、熱い風呂につかり100まで数えて出たものでした。
祖父に教えてもらった色々な言葉。その深い意味を自分の人生や日常に重ねられるようになったのは、ずいぶんと歳を重ねてきてからです。今はそんな言葉達がキラキラ輝いているくらいに感じることがあります。歳をとったということなんでしょうかね。でも、歳をとって、分かるようになって良かった、ということだと思っています。
なんでも持っていて、いつでも希望が叶っているような人は(時は)、ひとたび、思い通りにならないようなことが起こると、途端に不幸を味わうことになります。逆に何ももっていないような人は(時は)、小さな何かを手に入れただけでも、とても幸せな気分になることができます。
感情だけに注目しても、大きな喜びも、時間と共に色あせて喜びの原因が当たり前のものになってしまった時、それが少しでも欠けると大きな不幸な気持ちになったりします。
塞翁が馬の「翁」の姿を想像してしまうのですが、「ある意味での豊かさ」は不幸な気持ちの入口になっていて、「ある意味での貧しさ」や不慮の出来事は、幸せな気持ちの入口になっていたりするのです。
お金や物の豊富さと、長く続く幸せな気持ちは、あまり関係ないのかもしれません。
そして、プラスとマイナスを行ったり来たりする人生の波と、その中でプラスとマイナスを行き来する個人の気分の波と、疲れと休息を繰り返す個人の体と心の波と、そんな様々な波野中で浮き沈みしながらおそらく多くの人は生きているだと思われます。
この多くの波の中で浮き沈みしながらそれぞれ異なった状態でいる人達が、同じ時間と空間の中で過ごしていくことは、本来とても難しいことなのかもしれないと感じます。その難しさを、信頼とか思いやりとか、期待や期待に応える気持ちとか、感謝とか謝罪とかを、言葉を使ったり、言葉以外の態度や表情を使ったりしながら、お互いが居心地のよい時間と空間を作っていくわけで、それは果てしなく大きな共同作業なのかもしれません。
そんなことを考える中で、まずできることの一つとしての言葉を使ったアサーションという考え方。よりよいコミュニケーションのために、言葉をよりよく使っていくアサーションというものの存在を知っておくことが、よりよく生きていくことに役立っていくのではと思うわけです。
今日も危険なほどに暑くなりそうですが、少しだけ温度が低い風を心地よいなんて思えるのかもしれないな、なんて考えてみたりしてます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)
群馬県藤岡市にて