時代雑感(5)心の変化のこと
小さな子どもからお年寄りまで、平和な心を持っていたら、素晴らしい世の中になるのか?
僕にはそういうことはよくわかりません。
生きる意欲とは、時に戦闘的な気持ちに近いことがあって、一生の中では、それが重要な時もある。(参考:発達心理学、キャリア理論)。ここで使った「平和」という言葉も、ひとそれぞれ解釈が違いそうなので、話を変えることにします。
有名になりたい。世界一になりたい。遊んで暮らせるようになりたい。歴史に名を残したい。「鶏口となるも牛後となるなかれ」小さい組織でも良いから人の上に立つ人になりたい。
こんな言葉達を見るとき、感情が、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかに振れますか?
ほめて育てる。可愛い子には旅をさせよ。獅子は子を千尋の谷に落とす。ほめてはいけない。承認欲求。存在承認。経済的な豊かさ。貧しさのなかにこそある心の豊かさ。本当の幸せ。子どもには苦労をさせたくない。苦労をした人はひとの気持ちがわかる。頑張れと言ってはいけない。
ひとつひとつの言葉に良い反応が起きたり、反発が起きたりするのではないかと思います。
そして、それぞれの言葉が時に流行のように出回って、その広まった言葉が「もっとも正しいことだ」と言いながら周囲のひとに押しつけたり、その価値観で人々の価値を上だ下だと強く言う人が出てきたり・・・
そしてさらに、実はその裏には世の中をまるで操作しているかのような、商業的な力が、または政治的な力が隠れていたり・・・。
大衆の一人としての僕はどうするのかといえば、時には振り回されながら生きて、時には振り回されないように頑なになって生きています。何ヶ月何年後かに、あの行動は果たして良かったのかと後悔したり、間違っていなかったと自信を持ったり、さらに、何十年か後に振り返ってみて、その後悔や自信は逆になったり、またはすべてはあれで良かったのだと思えてみたり。
人の心は成長とともに変化します。人の心は時代とともに変化します。短い時間の中でプラスに振れ、マイナスに振れます。その短い時間の中で正しいことも、もう少し長い時間の中では間違いと思えたり、さらに長い時間(例えば何十年単位)の中では「やはり正しかった」となったりするように思います。
つまりは、沢山の学びを続けながら、身近な人と多くの人の幸せを考えながら、その時正しいと思うことをするしかないということなのだと思います。
短期的な評価と長期的な評価はまったく逆になることもあるので、ひとの評価なんて当てにはならないことを知っておきたいと思っています。一喜一憂してもあまり意味はないのかもしれません。
高校野球、夏の大会が始まりました。まずは、知り合いのいるチームを応援し、知り合いのいない時は、自分が見始めた時に負けているチームを応援し、または、どっちを応援するでもなく、一生懸命の姿を応援しながら、緊張している気持ちや嬉しい気持ちや悔しい気持ちや、応援団のラッパを吹く人の興奮した気持ちを思い浮かべたり、色々な見方をしている自分がいます。誰も応援しないけど、一人一人全員を応援している、みたいなのもありかなと思うわけです。
誤解を招きそうですが、彼らは本気で戦闘的であってほしいと思います。そして試合後の大きな感情の動きが少し収まったら、本気で平和的であってほしいと思います。
僕たちは、変化する時代の価値観の中に生きていて、自分の価値観も心も変化し続けて、そして、考え方も感情も常にプラスに振れマイナスに振れる変化を繰り返している。回りの人々と暮らしていくために、社会のルールや道徳の中で、迷惑をかけないようにしたり、あるいは、少しだけ迷惑をかけることを許してもらったりしながら、生きさせてもらっていく。
その関わりの中に、沢山の悲しみや苦しみを感じながらも、やはりその関わりの中に、沢山の感謝や感謝されることがあって、喜びや楽しみを見つけることもできる。生きている意味なんてわからないかもしれないけれど、自分が生きていると言うことが、誰かの生きている意味の発見につながることを想像しながら、生きていく。
いっときの雨上がりのちょっとだけひんやりした空気を感じながら、文章と戦ってみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)
(群馬県藤岡市にて)