アサーティブに!(32)親切と余計なお世話
人の価値観はそれぞれで、状況も人それぞれ。もちろん、今必要なものもそれぞれ異なっている。自分にとって、とても価値のあるものが、相手にとっても価値があるのかは全くわからない。
沢山の人と一緒に過ごすことを楽しいと思う人。一人で静かな時間を過ごしたいと望んでいる人。肉しか食べない人。野菜しか食べない人。座りたい人、立っていたい人。活字に飢えている人、本が嫌いな人・・・
そして、自分がとても良いと思うものを相手に与えようとする高潔な気持ちが、喜ばれることもあれば、残念ながら、ただの迷惑にしかならないこともあります。
「こんなに良いものをあげたのに、あの人はこの良さがわからない!」
「私だって必要だったのに、無理して分けてあげたのに、あの人は少しもありがたそうじゃない!」
世界に目を向けると。
貧困問題を抱える国に世界中から古着が送られて、送る側の人は「少しでも助けになれば」なんて善意の気持ちなのに、あまりにも大量に届いていて、どうにもならない服が山積みになっている、なんて話を聞きます。
緊急事態の時は、色々な物資が届くことは重要だけれど、その後継続して送られることは、自立した産業が育たなくなってしまうことにつながるなんて話も聞きます。
話を戻して。
要らないものをとても親切に押しつけてくる人に対して、どう断るか?アサーティブなコミュニケーションが必要な場面です。相手の気持ちを受けとめながら、自分のことを話し丁重に断ったり、場合によっては、お礼を言って受け取ると決めることもあるでしょう。断られる側も素直に相手の言い分を受けとめ、素直に引くことも大事でしょう。
ですが、ここではそれ以前に、相手が何を必要としているのか何を求めているのかを考えたり確認したり、相手に親切にしている自分にただ自己満足したいだけなのでは?という自分の気持ちを覗いたりすることも重要なことではないか、とお伝えしてみます。
かつて、物があまりない時代(日本に限定して考えてみます)、周囲の人も等しく経済的に貧しい時代、人からいただく物の多くは、どんな物でもありがたい物だった。物がある程度行き渡った時代になると、選ぶということができるようになり、好きな物、嫌いな物という余裕ができ、欲しくない物も増えた。
古き良き時代と比較しながら、現在を否定的に捉えるつもりはありませんが(いえ、正直、少しあります)、行き違いや誤解なく、「親切心」が、迷惑や余計なお世話ではない「親切」として伝わるには、そして「心の豊かさ」を醸成していくには何が必要なのかをアサーティブなコミュニケーションということも絡めながら考えていきたいと思っています。
雨の日には雨の対策をしっかりして、雨の恵みのことを考えて、暑い夏には暑さの対策をしっかりして、この暑さの中でしか育まれない何かがあるのかと考えてみたり、一生のうちにあと何度、季節の変化と出会えるのかなんて、考えてみたり、そんなことを思う自分の中にある豊かさを探してみたりしてみたいな、と思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)
(群馬県藤岡市にて)