アサーティブに関わる(28)「聴けない」について
成長とか進歩とか、前に進んでいるのかわからなくても、なんか変化していきたくて、ちょっと題名を「アサーティブに関わる」に変えてみました。自分の中では、「真夏バーションにしよう」という感じ。(特に意味は無いです)
コミュニケーションのことなど、考えることもなく暮らしていくとしたら、聴くことが大切とか難しいとか、考える必要もあまりないかもしれませんが、会社でも家庭でも学校でも、「うまく伝わらなかった」とか「誤解から不仲になってしまった」とか、そんなことがあると、「コミュニケーション能力を上げたい」とか「聴くって重要だよね」とか考えるようになるのかな、と思います。
では、「聴く」とは?
相手が話をする。理解できた単語をイメージ化する。相手の話すままのストーリーを受けとめる。感情を表す言葉などを受けとめながら、できごとと感じたことの関連などを理解していく。
ざっくりとこんな感じでしょうか?
聴くの逆の「聴けない」について考えてみます。
例1
相手が話をする。理解できた単語をイメージする。相手の話すストーリーを聞きつつ・・・。なんでそんなことをしたのかという疑問が浮かぶ。自分だったらそんなことはしないのにと思う。または自分がしたのと同じような経験だなと思う。その経験をすると、こんな気持ちになるんだよね。と思い、時には、相手よりも先にその気持ちを口に出して伝える。話を聞きながら、相手を評価したり、批判したり、自分の経験と重ね合わせて、その時起きた気持ちを思い出して、わかったつもりになったりする。
例2
相手が話をする。理解できた単語をイメージする。話に出てくる相手の行動と自分の行動を比較する。相手の価値観と自分の価値観を比較する。優れている行動の話を聞くと、尊敬の念と同時に自分への劣等感が強くなる。劣っている行動の話を聞くと、自分の正義感の基準を元にして、上からの否定的な態度になって続きの話を聞く。自分に目が向けられていて、自分が優れているか劣っているかの意識が強く、そのままの相手をそのままに受けとめることができていない状態。
相手が「聴いてもらって、楽になりました」なんて反応をしてほしいと望むようなことがあるとしたら、なんとか改善していきたいものです。 様々な理由で、自分も含め、誰でも「聴けない人」になってしまうことがありますが、改善していくためには、自分のいる現在の精神的環境を整えることや、物事の捉え方の偏り(認知の歪み)を修正していくことも大切だと思っています。
少し極端なことを想像してみます。30代を超えたような大人が、小学校に入る前くらいの子どもたちよりも腕力や知識で勝っていたとして、「俺ってすごいだろう?おまえ達はダメだな」と思うとしたら。大リーグの大谷選手のような人を見て、「あの人にくらべて私って全然ダメ」とはげしく落ち込むとしたら。
何か認知の歪みがあるような気がします。(ここのところ、詳しくは書きません)
例えば、針に糸を通す時、すべてを忘れて集中していることがあるとしたら。ギターの難しいコードでどうやったら指が届くか考え、他のことを忘れていることがあるとしたら。
目の前にいて何かを語ろうとしている人に、好奇心と感受性と愛を持って、本気で向き合ったら、自分との比較なんてことから解放されて、『聴く』の始まりがそこにあるような気がするのです。「聴くスキル」なんて技術の話を越えて、人と人がつながるための「聴く」がそこにあるようなきがするのです。
今日は「聴けない」から「聴く」について考えてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)
(群馬県を中心に活動展開始動中)