アサーション(17)生きる意味とか自己肯定感とか

 小学生も、中学生も、悩む人達はほんとうに悩んでいて、とてもとても哲学的なことを自分自身に問いかけているように思います。これから時間をかけて広げていく世界も今はまだ小さいままで、経済的自由なども大人よりも弱く、「ここだけが自分が生きる世界ではない」とか、「生きる道は無数にある」ということを「リアルな感覚で知るチャンスが少ない」、それが子どもたちの置かれた状況ではないか、と思います。

 僕の想像ですが、そんな中で多くの子が「生きる意味って何?」「生きることに意味があるの?」なんて考えているのではないでしょうか?自分から命を絶つ子どもたちが多いことから、僕はそんなことを推測してしまうのです。

 「生きる意味って何?」中学生の頃、そう自分に問いかけた自分は、辛いことのあった日々の中で否定的な意味を見つけるためにそう問いかけていました。「意味がない」という結論に辿り着きたかったんです。

 それから数十年。歩き続けて辿り着いたのは、「意味なんてないのかもね」だったり、「それって答えはわからないよね」という答えで、「意味って、あるかどうか考えるものじゃなくて自分でつけていくものだよね」ということです。

 そして、この意味は、たったひとりで生きていると見失いやすく、人と関わっている中でお互いに意味をつけ合うようにして育っていく感覚のように思います。

「おはよう」とあなたに言われるとき、自分という存在に気づき認めてくれている人がいることを知り、あなたがそこにいることに気づき、あなたの存在を認めて「おはよう」と返す。そこに笑顔があればそれは、「あなたはここにいていいんだよ」というサインだし、「あなたにここにいてほしいんだよ」につながっていく可能性がある。

「ありがとう」と言われて、自分が役に立つことがわかり、自分が人を喜ばせることが出来ることを知る。「ありがとう」と感謝を伝えれば、「いいえ、私がそうしたかっただけだから(My Pleasure)」みたいな答えが返ってきて、相手のことを思いあう関わりの中で、相手への肯定感や自分が肯定されていることを素直に感じる気持ちが育っていく。そんなふうに思うのです。

 様々な人達に対して寛容になり、色々な理由があって今のその人になっていることを認めて受け入れる気持ちを持とうとしていくと、同じように、色々な理由で今の状態になっている自分の気持ちや感情や能力や価値観も認めてあげることができるのではないかと思います。それは「自己肯定感」ではなく、もっと広く大きな意味での「超自己肯定感」へとつながっていくように思います。(もっと適切な言葉あるといいのだけれど)

 そんな思いを少しだけでも持ちながら、自分も尊重し相手も尊重することのできる人間関係を作っていくことは、生きやすさへもつながっていくと思っています。そしてその先には、「掃除を手伝ってくれる?」「洗い物をしてくれると助かるんだけど」みたいなことを心の中で抱えたままストレスを抱え続けるのではなく、口に出して伝えてみていいんだよという、アサーティブなわかりやすいコミュニケーションがあって、ごく自然に自分の気持ちを言葉にすることに違和感のない社会が実現していくのだと思っています。

 庭の名前のわからないもちっとした柔らかそうな草花。名前を調べ続けることも大事ですが、意味のわからないことに意味をつけてあげるように、勝手に「もちっとぐさ」なんて名前をつけて、楽しく付き合っていくこともできるのかな、なんて思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまアサラボ)高橋祐紀

 

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