アサーティブに!(45)Good old days

古き良き時代。

 あの頃、無かったもの。スマホ。インターネット。この2つと関係するもの。オンラインゲーム。延々とみられる動画、映画。どこにいても友人と連絡を取り合える環境。簡単にできる会う約束。待ち合わせに遅刻する時の連絡手段。Suica。駅の自動改札。

 あの頃、利用していたもの。缶切り。固定電話。友人など何十人分もの電話番号の記憶。友人を長時間待つ時、あちこちを観察する五感。待ち合わせで会えない時のプランB、プランC。駅によって色々な改札ばさみのパンチの形を楽しむこと。

 僕らは沢山の便利さや、沢山の問題解決のシステムや機械を手に入れた。人に道を訊かなくても、たいがいの所へ行けるし、待ち合わせで会えなかったなんてことはなく、必ず相手に会える。人と話す煩わしさなんて感じることなく買い物でも、移動でもすべては完結する。

 そして、何か大切なものを失ってしまったような気がします。もし、失った大切なものが何なのかがわかったとしても、時間は元に戻ることはなくて、古き良き時代はきっと幻影に過ぎず、戻るのではなくて、前へ進みながら古き良き時代の、もう一度取り戻したいもの達を取り戻しながら、現代とうまく融合させていくしかないのだと思います。

 困りごとを減らしていくために沢山のことが発明され、困りごとが少なくなって、人はひとに頼らなくても沢山のことを解決できるようになった。つまりは、人を助けたり、人に頼ったり、助けてもらったり、頼られたりすることが、これからの減り続けていく。おそらくそれが、人が進んでいく未来。極端かもしれないけれど、これから減っていく言葉や感情は、「お世話になります」「お陰様で」「ごめんなさい」「ありがとう」・・・。誰にもお世話になることなく生きていける、と思える状態を作り出していくことが、人々が望んでいる未来なのだとしたら・・・

 なにもかもを合理的に行うことが、いつも良いことなのか?例えば、だらだらとおしゃべりをしながら作業をする(こともある)ような地域での作業(「おてんましごと」なんて言う)は、完璧な道路清掃を求めているのではなくて、清掃による綺麗さは求められていることの半分で、地域のひと同士が顔を確認し合って、何かあった時の助け合いにつながる交流が半分だったりするのかもしれないわけです。

 私達が求めているのは、人が交流しなくても、色々なことが解決してしまう合理的な社会ではなくて、煩わしくても、非合理的でも、人と交流していく必要のある社会なのかもしれない、という考え方があってもいいのかなと思うのです。そして、そこでのコミュニケーションを質の良い煩わしさの少ないコミュニケーションに変えていくことなのではないかなと思うのです。

 あくまでも、人と人は関わり続けること。それが、生きていく意味や喜びの元にあって、それを外してしまった時、いったい何が残るのだろう、そんなふうに思ってしまうのです。あくまでも個人的な思いとして、ですが。

古き良き時代。関わり合って、関わり合って、生きてきた時代。関わりをなくすのではなくて、より良い関わり方を模索していくこと。それが進んでいく未来であってほしいな、と思うのです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)

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