アサーティブに!(33)わかりあえない
1円玉よりも一回り小さくて、厚みは7、8mmの磁石。モーターか何かの部品なのだろうか?そんな磁石を10個ほど、持っていた。近所の友人、T君も同じく10個ほど持っていて、それをうちに持ってきて二人で遊んでいた。
僕の持っているものの中に、ひとつだけ赤い塗料の付着したものがあった。(僕の記憶では)。細い筆先でちょんと触れたくらいに「赤」い点がついているだけだったが、なぜかそれは特別な存在だった。他の磁石はみな黒いだけで、見分けはつかなかった。
T君としばらく遊んだ後、T君はくっついている磁石から自分の分を引き剥がしたのだが、その中に「赤」が混じっていた。
「ちょっと待って、その赤いのは僕のだよ」僕は間違いを指摘しただけのはずだったが、T君の応えは、
「これは、俺のだよ」。
しばらく口論が続き、意地になった僕の提案は
「じゃあ、いいよ。僕の9個全部やるから、その赤は返して」。
僕はどうしても赤を手放したくなかったけれど、結果としては提案は受け入れられず、T君が赤を持って帰り、僕は悔しくて悲しくて、その後大泣きした。
真実はわからない。どちらかが勘違いをしているはずだけれど、ある時点でそれぞれが「これは自分にとって特別な赤の磁石で、自分が持っていた(きた)もの」と思い始めたということなのだろうか。ある時点で生まれたその考えはそれぞれにとっての真実になってしまった。1つしか無いはずの真実が2つできてしまった。僕の決死ともいえる提案も拒否され、出口は完全に塞がれた。
遠い思い出。「赤」を失った6歳か7歳の僕が手に入れたのは、その後の自分を形成していく材料だったのかもしれない。
ある宗教に関して話し合うテレビ番組で印象に残った言葉があった。
「わからないことを尊重する」というような言葉。
進化論を正しいと思っている人からすれば、神による天地創造の話は本当だとは思えないし、立場を変えると、進化論なんて正しいとは思えない。となる。議論してどちらかが論破したとしても、そこには何も残らないし、きっと考えが変わるわけでもない。
(これは、純粋に考え方や思想の話として読んでください)
アサーティブな態度につながっていく話かもしれないと思い、ここに書いてみてます。
話し合ってお互いをわかりあうことが重要とは言え、話し合ってもわかりあえないことも世の中にはあります。ただ、自分とは思いが異なっているとしても、「何かを考え、生きようとしている存在」として尊重することを、人と人との関係の始めと考える必要があるように思うのです。
赤の磁石。どうでも良い捨てられた工業製品の一部。些細なことと思われるようなことに対しても、エネルギー全開で生きている子ども達がそこにはいて、きっと今も子ども達はそんなふうに生きているのだろうと思います。
悲しんで悔しがって、大きくなってくれ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
NPO法人ぐんまアサーションラボ(ぐんまあさらぼ)
群馬県藤岡市にて